
村民の皆さん、こんにちは。新型コロナウイルス感染症は、収まりそうもありません。自己防衛して、ご自愛ください。
今回は、いつもと変えて、村づくりを物語風にて、お届けします。
貧乏村から裕福村へ!
飛島村は、1972年に名古屋港西部臨海工業地帯(木場・金岡・西浜・東浜)が、本村に編入されるまでは、とにかく、お金が無く、着物の袖を振っても、何も出てこない貧乏村でした。
また、その当時の村道は、砂利道でありました。当然、自動車が、通れば、デコボコになります。それを補修するため、村が砂利を購入し、村民が使役で、砂利を軽自動車に積んで、村道にそれを撒いたものです。今は、その道路は、アスファルト舗装されています。
悪しき風土とは、何か!
こんな時代の村政は、お金がないため、前年と同様な予算しか、組めません。これが、長年続くと、前例踏襲主義の要因になります。役場職員において、新たなことを、考える必要が無く、また、考えなくなり、前例踏襲主義が幅を利かせます。それが、何十年も続くと、役場組織、職員の頭は、固くなり、新しいことをしない、受け入れようとしなくなります。
このことは、その当時の役場、職員が、悪いのではなく、そういう環境下では、ある意味、しかたが無いことでありますが、現在の飛島村役場においても、この風土が続いています。
この風土の一番の問題は、時代が変わり、行政が変わらなければいけないのに、前例踏襲主義で村政を行っていれば、よいと思い込んでいる役場組織があり、頭の固い職員がいることです。私に言わせれば、これが、「悪しき風土」の最大の元凶であります。
悪しき風土は、変える?
さて、話しは変わりますが、ここからは、飛島村の生い立ちに触れます。本村は、干潟に堤防を築き、それを埋め立てて出来た新田であります。当然、その新田には、塩分が多く、塩害で作物が出来ません。雨が降り、年月が経ち、塩分が少しずつ抜けていき、作物ができるようになってきました。
また、その当時の働き方は、日の出から日の入りまで、農作業等を行い、よく働いたものです。このDNAが今に引き継がれています。
ここで、一つのエピソードを紹介します。
私が、役場に勤めていた若いころ、年次有給休暇をとると、年輩の村民から、「あそんでいる」という表現を使って、言われたことがあります。この「あそんでいる」は、仕事をしていないということであり、ゲーム等をして、遊んでいるとは、違う意味です。先輩は、我々は、あそぶ暇がないくらい働いているから、何事かということが、言いたいのであります。風土は、良し悪しに関係なく、生まれてきます。良い風土は、残す必要があるが、悪い風土は、変える必要があります。
新しい風土(村づくり)は、自ら創るもの
さて、貧乏村から裕福村になったことは、良いが、村づくりの観点からいうと、本村役場には、計画を立てて、事業を行うという概念が、乏しいと言わざるを得ません。本来であれば、総合計画を作り、それに基づいて、村づくりを行うものであるが、総合計画は、策定するものの、事業を行うに当たり、計画性が無く、近視眼的に、必要な事だけを行う。これをなせる業は、財政力があるからです。財政力が無ければ、必然的に計画を立てて、事業を行うことになります。
さて、令和3年度に妊産婦タクシー助成事業を行い、令和4年度に福祉タクシー事業の拡充を行った。私には、これらは、単発、場当たり事業に見えます。何故なら、これらの事業の根幹となる福祉計画及び村民の足に対するビジョン、全体計画が無いからです。
私は、財政力だけで行う計画性のない村政(村づくり)ではなく、明確なビジョンをもって、計画行政の村づくりが、必要であると考えています。これは、一人の意見でありますが、村長始め役場職員が、これを理解し、動き出せば、村づくりは、いい方向に向かっていくと信じています。
悪しき風土を変えるのが、難しければ、加藤村長始め職員は、自ら新しい風土を創れば、いいのです。その気概が、欲しいものです。
飛島村は、チロリン村である
最後に、ある村民の言葉を借りれば、「飛島村は、チロリン村である」と表現しています。この村民が、どんな思いで言ったのか、考えてください。
私は、飛島村に対する叱咤激励であると取りたいと思います。これにて、「とびしま物語」は、終わりです。